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「こんにちわ撲滅委員会」撲滅委員会

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2008年 03月 18日

違和感を感じる

あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かも寝む
柿本人麻呂


先日、テレビを見ていたときのことですが、日曜美術館という番組に作家の田口ランディさんという人が出ていて、いろいろなお話をされてたんですけど、そこで「違和を感じる」という表現を使ってたのを見ました。私はこれを聞いて、ちょっと聞きなれない表現だなと思い、それこそ違和感を感じてしまいました。
いったいどのような理由で田口さんがこのようなフレーズを使ったのか、勝手に判断することはできませんが、おそらく「違和感を感じる」という言い方が、意味が2重になって間違っているという判断からこのような言い方になったのではないかと思われます。
この「違和感を感じる」という表現、私は特に変だとは思っていませんでしたが、Webを検索してみますと、間違いと思ってる人と、間違いではないと思ってる人がいるようです。間違いと思ってる人のなかには「違和感を覚える」と言い換えるのが適当と考えている人もいるようです。そのような言い換えについては私も意味的には正しい表現だと思います。しかし「違和を感じる」という表現についてはどうかなと思ったしだいです。
それでは、果たして「違和感を感じる」というフレーズは意味的に2重になっているのでしょうか?
足がかりとして、以下の2つの文を見てみましょう

  1. 普段着を着る
  2. 重ね着を着る

aに関しては、特に違和感はありません。普段から日常的によく使われる表現です。bについてはどうでしょう?おかしく感じませんか?意味的に同じ内容が重なっているように思いますよね。
それではこれらの表現のどこが違うのでしょうか?
それは普段着をという言葉は「普段から着ているもの」の意味があるのに対し、重ね着という言葉は「重ねて着ること」という意味があるからです。
aとbを以上の定義で置き換えて見ましょう。

  1. 「普段から着ているもの」を着る
  2. 「重ねて着ること」を着る

どうです?aは意味が通じますが、bでは意味が通じません。これ以降、aのような言葉を「普段着型」の単語、bのような言葉を「重ね着型」の単語と呼ぶことにします。前者を「もの型」、後者を「こと型」と呼んでもいいかもしれません。
さて、それでは「違和感」という単語は、普段着型なのでしょうか?重ね着型なのでしょうか?
普段着型であれば、「違和感」という単語は、「違和な感じ」という意味になります。また、重ね着型であれば「違和を感じること」という意味になります。
ヒントは「違和感を覚える」というフレーズにあります。
この「違和感を覚える」という表現については、特におかしいと考えている人はいないのではないでしょうか?
それでは、このフレーズを普段着型の定義と重ね着型の定義で置き換えてみましょう。

  1. 普段着型:「違和な感じ」を覚える
  2. 重ね着型:「違和を感じること」を覚える

どうです?aはOKですが、bではおかしいでしょう?
このことから、違和感をいう言葉は普段着型の単語であり、「違和な感じ」という意味で使用されているのであって、「違和感を感じる」というフレーズは、「普段着を着る」と同じで、少なくとも意味的には何の問題もないということがわかります。
「違和感を感じる」が意味的に間違いだとして「違和を感じる」という言い回しを発明してしまったことは、誤った規範意識が日本語を捻じ曲げてしまった典型的な例ではないかと思います。
私がここに書いたことは特に難しいことではありません。日本語を普段から話す人であれば、誰でも少し考えれば分かることです。言語学者を呼び出さなくてもすむはずのことなのです。
また、情報理論的な側面から見ますと、言葉に冗長性があるのは、受け取る側がエラー判定を行い、文章を修正して理解するために必要なことです。それ以前に、同じ記号が続いたからといって、その文章に含まれる情報量が少なくなるというのは錯覚で、01100101という記号も11111111という記号も、もし両者が同じ確率で発生するのであれば情報量としては同じということになります。
もし「違和感を感じる」という言葉がおかしいと感じるというのであれば、それは意味的な問題でも、情報理論上の冗長性の問題でもなく、使う人の美的センスの問題ということになります。
そこで冒頭の柿本人麻呂の歌です。この歌は百人一首にも選ばれていて有名な歌なのですが、一見すればだらだらとムダが多いように思われます。「尾の」という言葉を2回も使っていますし、「ながながし」という言葉にもなんともいえない引き伸ばし感が漂います。もちろん、そのような繰り返しを意図的に避けようと思えば、この柿本人麻呂と呼ばれる歌人には可能なことではあったでしょう。しかしながら、この歌には音韻や意味の繰り返しによって、同じ状態が長く続き、いつまでたっても終わらないという焦燥感がよく表われており、それこそがこの歌の価値を高めているのです。
これは一つの例にしか過ぎませんが「同じ記号が続くから美的に劣る」などとは軽々しく言ってほしくないものです。

by torafuzuku | 2008-03-18 14:03 | 規則が大好きな人たち


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