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2008年 12月 18日
すこし前に放送された番組ですが、いい内容だと思ったので紹介します。 読み書きというものが人間の発明品であるということ、そして、その発明品に人間自体がまだ十分に適応していないということ、そのことが明確に示されたのはよかったと思います。 ただ、もうすこし説明してもよかったな、という部分もあります。 ひとつには、読み書きを行うときの脳内の処理ですが、番組ではひとつの経路が示されていましたが、実のところ、読み書きの処理については、もっと多様な方法があり、文字の種類(たとえば漢字)では違う回路で処理が行われていると考えられています。その点について説明がなかったのはちょっと残念です。 しかしながら、テレビという枠でそのことを説明すると、本筋がぼやけてしまうということはあるかもしれません。これはテレビというメディアの持つ宿命でしょう。 もうひとつ、番組では「人間の体が文字に適応しきれていない」というような言い方をしていましたが、これはいったいどういうことなのか、ということを明確にしてほしかったと思います。普通に考えると、もっと教育のやり方を工夫して、誰もがある程度の読み書き能力を得ることが出来るのでは、と考えたくなりますが、そのような過程で適応できる範囲には限界がありますし、個人ごとに支払うコストに大きな差が生じることには変わりがありませんから、結局不公平になります。 現時点では、人間の体を文字に適応しようとすれば、ダーウィン的な自然淘汰の過程を通して人間の肉体の進化を待つしかありません。そして、それは恐ろしい意味を含んでいます。というのも、それは人間が自分たちの発明したものによって選別される、ということを意味しているからです。 わかりやすいように、自転車の類似で考えて見ましょう。 もし、自転車がおしきせの一種類しかなくて、それを乗りこなせないと生活できずに死んでしまう、という世の中があったと想像してみてください。そんな世界に住みたいと思うでしょうか?それは本当に恐ろしい世界だと思います。しかし、現状ではゆるやかではありますが、そのような過程が進行中であるといえます。 しかし、人間は死を教師とするほどおろかな存在ではないと私は信じています。 このような恐ろしい世界を回避するには、読み書きをあきらめて歴史以前の世界に戻るか、読み書きのやり方を変えるしかありません。 もちろん、われわれは読み書きを捨てることは出来ないところにまですでに来ています。 前にも言いましたが、やはり読み書きの手段を扱うためにはエンジニア的な見方を通して読み書き方法の設計図を見直す必要があるでしょう。われわれにはその道しか残されていません。 しかし、その前には大きな障害があるでしょう。特に、現在の読み書き方法にたまたま適応している人から見れば、読み書きの方法を修正したり、多様性を認めたりすることは、既得権を手放すことになりますから、大きな抵抗が起こるでしょう。彼らは、自分たちと違う読み書き方法を使用している人たちに対して、文化的に劣っていると決め付けたり、彼らは努力が足りないと言ったり、あるいは、このような間違った読み書き方法がはびこると言葉が壊れてしまう、といったような脅しをかけてくるでしょう。 2008年 03月 18日
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かも寝む 柿本人麻呂 先日、テレビを見ていたときのことですが、日曜美術館という番組に作家の田口ランディさんという人が出ていて、いろいろなお話をされてたんですけど、そこで「違和を感じる」という表現を使ってたのを見ました。私はこれを聞いて、ちょっと聞きなれない表現だなと思い、それこそ違和感を感じてしまいました。 いったいどのような理由で田口さんがこのようなフレーズを使ったのか、勝手に判断することはできませんが、おそらく「違和感を感じる」という言い方が、意味が2重になって間違っているという判断からこのような言い方になったのではないかと思われます。 この「違和感を感じる」という表現、私は特に変だとは思っていませんでしたが、Webを検索してみますと、間違いと思ってる人と、間違いではないと思ってる人がいるようです。間違いと思ってる人のなかには「違和感を覚える」と言い換えるのが適当と考えている人もいるようです。そのような言い換えについては私も意味的には正しい表現だと思います。しかし「違和を感じる」という表現についてはどうかなと思ったしだいです。 それでは、果たして「違和感を感じる」というフレーズは意味的に2重になっているのでしょうか? 足がかりとして、以下の2つの文を見てみましょう
aに関しては、特に違和感はありません。普段から日常的によく使われる表現です。bについてはどうでしょう?おかしく感じませんか?意味的に同じ内容が重なっているように思いますよね。 それではこれらの表現のどこが違うのでしょうか? それは普段着をという言葉は「普段から着ているもの」の意味があるのに対し、重ね着という言葉は「重ねて着ること」という意味があるからです。 aとbを以上の定義で置き換えて見ましょう。
どうです?aは意味が通じますが、bでは意味が通じません。これ以降、aのような言葉を「普段着型」の単語、bのような言葉を「重ね着型」の単語と呼ぶことにします。前者を「もの型」、後者を「こと型」と呼んでもいいかもしれません。 さて、それでは「違和感」という単語は、普段着型なのでしょうか?重ね着型なのでしょうか? 普段着型であれば、「違和感」という単語は、「違和な感じ」という意味になります。また、重ね着型であれば「違和を感じること」という意味になります。 ヒントは「違和感を覚える」というフレーズにあります。 この「違和感を覚える」という表現については、特におかしいと考えている人はいないのではないでしょうか? それでは、このフレーズを普段着型の定義と重ね着型の定義で置き換えてみましょう。
どうです?aはOKですが、bではおかしいでしょう? このことから、違和感をいう言葉は普段着型の単語であり、「違和な感じ」という意味で使用されているのであって、「違和感を感じる」というフレーズは、「普段着を着る」と同じで、少なくとも意味的には何の問題もないということがわかります。 「違和感を感じる」が意味的に間違いだとして「違和を感じる」という言い回しを発明してしまったことは、誤った規範意識が日本語を捻じ曲げてしまった典型的な例ではないかと思います。 私がここに書いたことは特に難しいことではありません。日本語を普段から話す人であれば、誰でも少し考えれば分かることです。言語学者を呼び出さなくてもすむはずのことなのです。 また、情報理論的な側面から見ますと、言葉に冗長性があるのは、受け取る側がエラー判定を行い、文章を修正して理解するために必要なことです。それ以前に、同じ記号が続いたからといって、その文章に含まれる情報量が少なくなるというのは錯覚で、01100101という記号も11111111という記号も、もし両者が同じ確率で発生するのであれば情報量としては同じということになります。 もし「違和感を感じる」という言葉がおかしいと感じるというのであれば、それは意味的な問題でも、情報理論上の冗長性の問題でもなく、使う人の美的センスの問題ということになります。 そこで冒頭の柿本人麻呂の歌です。この歌は百人一首にも選ばれていて有名な歌なのですが、一見すればだらだらとムダが多いように思われます。「尾の」という言葉を2回も使っていますし、「ながながし」という言葉にもなんともいえない引き伸ばし感が漂います。もちろん、そのような繰り返しを意図的に避けようと思えば、この柿本人麻呂と呼ばれる歌人には可能なことではあったでしょう。しかしながら、この歌には音韻や意味の繰り返しによって、同じ状態が長く続き、いつまでたっても終わらないという焦燥感がよく表われており、それこそがこの歌の価値を高めているのです。 これは一つの例にしか過ぎませんが「同じ記号が続くから美的に劣る」などとは軽々しく言ってほしくないものです。 2007年 07月 05日
馬鹿なことはやめろ!すぐこの本を閉じるのだ!<フォーマ>しか書いてないんだぞ! カート・ヴォネガット著「猫のゆりかご」より ★「神は妄想である」 リチャード・ドーキンス著 ドーキンスの宗教批判の集大成。科学と宗教の棲み分けとか、共存なんてことは少しも考えていない。徹底的に宗教を攻撃している。 私はこの本の分類によると汎神論者らしいのですが、特に宗教を撲滅せよなどとは思っていません。しかし、このようなブログをやっている関係で、ドーキンスほどじゃないですけど、同じように狂信的な人と話してきた体験がありますので、この本のドーキンスにちょっとばかり共感をおぼえました。まあ、気持ちはわかるってことですね。しかし、ほとんどの日本人にとって、一神教がこれほど強く生活に入り込んで、日常の道徳的判断に深くかかわっているという状態は想像できないでしょう。実際に私も実感できません。カトリックとプロテスタントの違いなんてのもよくわからないです。 たとえば、日本である人がクリスチャンであることを告白しても、ちょっと特殊な趣味を持っているぐらいにしか思われないでしょう。また、「信心深い人」であることを告白した場合は、道徳的に優れた人という評価を得るよりも、ちょっと危ない人といった評価を下される可能性が高いでしょう。 そんな日本人も信仰とは無縁ではありません。一神教のような強烈な神がいるわけではないのですが、「おてんとさまが見てるから悪いことはできない」といいますし、「食べ物を粗末にするのはもったない」と考えるのは、食べ物にある種の魂が宿っていると考えているからでしょう。同じように、以下のような言説もいわば「小さな信仰」であり、そのような多くの非合理的な信念とともに生活しているのも事実です。
以上の例は、玉石混合です。あえてそうしてみました。 これらの小さな信仰をもっと的確に表現する言葉はあると思いますが、残念ながら私は勉強不足によりその言葉を知りません。私が知っている言葉で一番近いのは、冒頭の引用で紹介した「フォーマ」という言葉だと思います。フォーマとはカート・ヴォネガットの「猫のゆりかご」という小説の中の架空の宗教であるボコノン教というのがありまして、その教義にある概念で、いわば「罪のない嘘」のことです。ボコノン教の教義はフォーマの集合体です。冒頭の引用はそのことを高らかに宣言しています。 フォーマという言葉は魅力的なのですが、ここでは敢えて単に『小さな信仰』と呼ぶことにします。 私はこの本を読んでいる間、
といった観点を常に見失わないように読んでいました。 で、その観点から見て、この本のなかで一番面白いのは第5章の「宗教の起源」です。 ドーキンスは宗教はミームの複合体であるという仮説を立てています。もし宗教がミームの複合体であった場合、当然ながらミームも遺伝子同様に、淘汰にさらされます。その過程でより強いミームが生き残ります。ドーキンスもしつこく繰り返してますが、強いミームは人間にとって必ずしもいいミームとは限らず、強いミームと共生しているからといって、それが人間にとって幸福とはいえないのです。このことから、都合のいい信仰をデザインするには、他の信仰に負けないほどの強いミームであることが必要条件だということがわかります。いくらいい信仰を設計したとしても、それが他の悪い信仰に負けてしまっては何にもなりません。 面白いのは、ミームの複合体である宗教が変化する過程を、ドーキンスは生物の遺伝子が変わっていく進化の過程とはちょっと違うニュアンスで捕らえているように見えるところです。ミームの複合体は特に大きな淘汰圧にさらされることなくても、大きな変化が起こりうるということをこの本では言っています。大した淘汰圧もないのに、自発的になだれ的に変化する自己複製子の集まりがあるといってるわけです。あのドーキンスがです。しかし、これと同じことが生物でも起こったとはさすがに言ってません。ドーキンスは生物における自己複製子(遺伝子)の集合体を、ちょうど肉食動物の遺伝子の集まりと草食動物の遺伝子の集まりの違いをひとつの例として説明しています。しかし、「草食動物が肉食動物にある時期に意味もなく突然進化することがあるのではないか」なんてことは言ってません。もし言ってたら「ドーキンス、宗旨替え」と揶揄されるところだったでしょう。 ドーキンスは、このミームの複合体における大きな進化の類似として、英語における大母音推移をあげています。同じように言語が突然変化する可能性については、ちょうどこのブログでも「複雑な世界、単純な法則」の書評のなかで取り上げたことがあります。私がその記事を書いたときには、大母音推移のことは明記していませんでしたが、頭の中にはありました。大母音推移のことについて、あまりよく知らなかったので、そのときはあえて書かなかったのです。 この「なだれ的な進化」は、一見安定しているように見える信仰も、ちょっとしたきっかけで崩れてしまい、全く別の複合体に変わってしまう可能性があることを示唆しています。したがって時代によって都合のいい信仰を少しずつデザインしなおす作業が時には必要であるように思われるのです。たとえば人権といった概念の場合を考えて見ましょう。やはりこれもひとつの『小さな信仰』といえるでしょうが、時代によってその定義や適用範囲が変わってくるでしょう。 2007年 01月 30日
読み書きと自転車の類比は、以下の点でかなり有効である。 両者とも、文化的な産物であり、後天的に取得されるものであるということ 身体は自然科学の対象であり、自転車は工学の対象である。これについて異議を唱える人はいないだろう。 しかし、「言語は自然科学の対象であり、読み書きは工学の対象だ」という事実にはついては、まだまだ理解されていない。言葉に関する多くの議論が、この事実を認識していないことにより混乱が生じている。 両者を取得するためには、ある一定のコストがかかるということ 自転車に乗るには練習が必要であるし、読み書きを取得するには、子供のころから長い時間の学習が必要となる。このコストの問題は当たり前のことだと思われているので、コストであるという意識が薄れているが、なければないで越したことがない種類のものだ。 両者とも、先天的な能力(歩行能力と言語能力)を拡張するものであり、それらと密接に結合しているということ 言語と読み書きは、その起源に限っていうと別物であり素性が違うものだ。しかしながら読み書き能力の取得が、本来持っている言語能力になんらかの影響を与える可能性は十分にありうるし、かなり濃密に相互作用を与えあっていることは疑いがない。 同じことは自転車にもいえる。自転車はかなり微妙に身体の反応を受け取る道具だ。さらに、自転車に乗ることによって、足の筋肉の発達に影響が発生することもあるだろう。この点でいうと、自動車や電車は身体の拡張とはいえない。 以上を踏まえて、私が「鉄下駄理論」と呼んでいる議論について考えてみよう。鉄下駄理論とは簡単に言うと「読み書き方法の難易度を上げれば、読み書きの取得と使用の過程で脳が鍛えられていい」という考えである。よく見かける議論であるが、自転車の類比を使って見てみると「自転車は乗りにくくてペダルが重いほうが足が鍛えられていい」といってるのと同じだということがわかる。 ちなみに、コンピュータと自転車について、今から20年以上前に、同じような類比を行っていた人がいた。米国のアップル社のスティーブ・ジョブス氏である。彼は直感的にアップル社のコンピュータを知的自転車と呼んでいた。当時のアップル社のコンピュータが自転車と呼べるほど身体を拡張する道具であったかどうかは疑問であり、むしろ電車に近い道具だたったのかもしれないが、のちにMacintoshによって、曲がりなりにも知的自転車と呼べるコンピュータが実現することになる。彼の直感は間違っていなかった。 私はコンピュータの出現によって、従来の読み書き方法が、歴史的なひとつの曲がり角を迎えているのではないかと考えている。コンピュータによって読み書きを取得するコストが大幅に抑えられ、さらに全ての人間が同じ読み書き方法を共有する必要がなくなる時代が来るのではないか、と考えている。 ずいぶんSF的な話に聞こえるかもしれないが、漢字変換ソフトを使って文字を入力している人は、すでにその世界に足を突っ込んでいる。Webページにふりがなを振って表示するソフトなんていうのも今の技術をもってすれば簡単にできてしまうだろう。 万人が同じ自転車を乗る必要はない。読み書き方法の共有を捨て去ることで、無駄なコストが削減され、読字障害に悩む多くの人が救われるのではないかと思っている。 2006年 11月 30日
『ヒューマンリーグ。馬鹿気た名前だ。なんだってこんな無意味な名前をつけるのだろう?昔の人間はバンドにもっとまともな節度のある名前をつけたものだ。インペリアルズ、シュプリームズ、フラミンゴズ、ファルコンズ、インプレッションズ、ドアーズ、フォア・シーズンズ、ビーチボーイズ。』 村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」より 広島に根拠地を置くプロ野球チーム「広島カープ」は、発足当初は「広島カープス」といったそうだ。発足した直後に、広島大学の先生などが「英語のCarpは単数と複数が同形なので、カープスはおかしい。カープにすべきだ」と主張して、今の「広島カープ」という名前になったそうだ。その広島大学の先生たちは、いわば「広島カープス撲滅委員会」というわけだ。この話は随分古い話だし、公式ページにも載ってなかったので、詳細は異なるかもしれないが、大筋ではこのような話で間違いないだろう。「広島カープス撲滅委員会」の「間違った英語を広めると教育上よくない」とか「米国人にこんなチーム名が知られたらはずかちーですよー」とかいう声が聞こえてきそうだ。とにもかくにも、最終的には「広島カープス撲滅委員会」の運動のおかげで、広島のプロ野球のチーム名が、正しい名前「広島カープ」に修正されました。めでたし、めでたし。 ところがこれで話は終わらない。 というのも、チーム名は普通名詞とは違うから、普通名詞の規則をそのまま当てはめる必要はないという説もあるからだ。例として、カナダにはトロント・メイプルリーフス(Toronto Maple Leafs)という名前のホッケーチームがある。これ、普通名詞の複数形だとメイプルリーヴス(Maple Leaves)になるはずなんだけど、なぜかメイプルリーフスになっている。なぜかというと、このチーム名はメイプルリーフのマークの付いたユニフォームを着ていることにより、一人一人が「メイプルリーフ」とあだ名される男たちの集団という意味で命名されたのであり、ホッケーチームはトロントの公園にあるカエデの葉っぱとは違うので、「メイプルリーフ」スというチーム名にした、というわけである。 このように「何々とあだなされる人たちの集団」という形の命名規約を「古典的チーム命名ルール」と呼ぶことにする(註1)。 ところで、米国のバスケットボールのチームには、ミネソタ・ティンバーウルブズというチームがある。先ほどの説明だと、チーム名は狼を表す一般名詞ではないのだから、ティンバーウルフスでなければならないという話になる。しかし、実際にはティンバーウルヴズだ。なんでこの二つのチーム名で命名の規則が違うのかよくわからない。ただ、チームの構成員を葉っぱそのものに見立てるのは無理があるけど、狼に見立てるのはそれほど違和感はない、ということかもしれない。じゃあ、どのへんにその線引きをするのかというと、これはもう名づけた人の考え方一つとしかいいようがない。 それでは広島カープのケースはどう考えればいいんだろう。 ヒントになるのが米国のMLBの例で、フロリダにはマーリンズというチームがある。マーリンというのはカジキの一種で、カジキというのは言うまでもなく魚類の一種であるから、「広島カープス撲滅委員会」の言い分を当てはめると、フロリダ・マーリンズはフロリダ・マーリンでなければならない。これは、先ほどのチーム名と普通名詞を区別するという話に加えて、魚だからといって単純に単複数同形といっていいのかどうか、という話とからんでくる。 実際にcarpという単語をいくつかの辞書で引いてみると、複数形のところにcarpsもありえるということになっている。carpとcarpsをどのように使い分けているのかというのは辞書を引いただけではよくわからなかった。又聞きした話だと、観賞用のコイのように一匹一匹が個性があって区別できる場合はcarpsというのだそうだ。残念だけどこの説の裏付けはとれなかった。しかし、もしその説が正しいとすると、野球のチーム名としてはcarpsのほうが、その使われ方を考えれば適切に思われる。つまり、山本浩二と衣笠の区別ができないとか、正田と高橋慶彦の区別ができないとか、外木場と北別府の区別ができないというのでもないかぎり、「広島カープ」というチーム名にする必要はない。いくら個別の選手を鯉に見立てたとしても、選手を鯉と全く同一視するのは、やはり無理があるんじゃないだろうか(註2)。というわけで「広島カープス撲滅委員会」の主張と異なり、古典的な命名ルールに従えば「広島カープス」のほうがより適切なチーム名のように思われる。 ところが、これで話は終わらない。 これまでは、「古典的チーム命名ルール」に限定して話してきたが、それを逸脱する場合も今では多いからだ。 実際にNBAにはsが付かないチーム名が他にもたくさんある。たとえば、マイアミ・ヒートとか、オーランド・マジックとかだ。これらは、「古典的チーム命名ルール」を逸脱した「前衛的チーム名」といえるだろう。この場合、すでにチームの構成員をチーム名の単数形で呼ぶことは不可能になってくる。チーム全体が「ヒート」であり、チームが「マジック」を演出するという意味なのだろう(註3)。 そう考えると「広島カープ」というチーム名は、「古典的チーム名」としては、そのルールを逸脱している名前であるが、「前衛的チーム名」と考えると、チーム名がつけられた当時としては非常に画期的なチーム名であるといえる。チームそのものが歌川国芳の武者絵に出てくるような巨大な一匹の大きな鯉をあらわしていると言われれば、なるほどそうかもしれないと思えてくる。 というわけで、私は「広島カープ」という名前はそのまま変える必要はないと考えています。もう「広島カープ」で定着してますし、言葉は話し手の意図が重要で、規則はあとから来るものだと思ってますから。 註1 古典的チーム命名ルールでは、チームの構成員は、チーム名の単数形で呼ぶことが可能になる。たとえばタイガースの若手選手をyoung tigerと呼ぶことが可能になる。ここで疑問なのはボストン・レッドソックスの例だ。果たして、レッドソックス(ホワイトソックスも同じ)の個別の選手はどのように呼ばれるべきなのか。松坂大輔は redsox from Japan と呼ばれるべきなのか?それともredsock from Japanと呼ばれるべきなのか? 註2 どちらかというと、広島カープの選手は、猿やらくだなどの他の動物に見立てた方がいいという意見を言ったドラゴンズファンの友人がいたが、私はそうは思わない。 註3 リーグ別に調べたところ、MLBのような古いリーグでは、すべてが「古典的チーム命名ルール」に従っており、NFL、NBAの順番で、「前衛的チーム名」が増えてくる。これは、リーグ自体が保守的かリベラルかの指標を示しているようで面白い。 2006年 09月 30日
今更ながら、なんでこのブログを始めたかと言いますと、基本的には「『こんにちは』を『こんにちわ』と表記する考え方もあるんだよ」っていうことを伝えたかったからなんですね。同時に、こんにちわ撲滅委員会の会員さんたちの発言とか、管理人の無責任な態度に対する憤りもありましたけど、「語源絶対主義」のような誤った知識が蔓延してほしくなかった、というのが主な動機です。 たとえば、『こんにちは』と『こんにちわ』とどっちが正しいんだろうと思った人がいたとします。その人は、Webで検索するなどして、こんにちわ撲滅委員会を発見するでしょう。で、そこで一応納得するかもしれません。この段階で疑問をもたなかった人は、多分私が何を言ってもダメでしょう。それはこのブログを始めてからいろんな人を話してみた経験からそう思います。まあ、少しでも合理的な考えかたができる人なら「これ、ちょっとおかしいんじゃないの?」と疑問を持つわけです。そう思った人に読んで欲しいと思って、できるだけ検索されやすいように、ブログのタイトルをこんなカッコ悪いものにしたわけです。 このブログを始めてから、いろんな本を読んで勉強しました。「問題な日本語」っていう本もそのひとつで、その本にも「こんにちわ問題」について書かれてまして、そこに書かれている説明が、おそらくは「『こんにちは』と『こんにちわ』とどっちが正しいの?」という質問に対する、日本で義務教育を終えた人への答えとしては、最も公平でまとまったものだと思います。この本のおかげで私はヘタな説明を繰り返す必要がなくなり、随分助かりました。 また、いろいろ勉強したおかげで、最近では言語の起源とか音楽との関係とか、「どのようにして人間は言語を習得をするのか」とか、そんなところまで興味が広がってきております。これって全然関係のない次元の違う話じゃなくて、こんにちわ撲滅委員会のような言葉の指南役を自称する人たちがなぜ発生するのか、みたいな日常の話とリンクしてるんですよね。ある意味で、言葉の指南役とは対局の位置にいる言語学者たちは、そういう日常の問題には敢えて答えを出さないようにしています。それはそれで学者としては正しい態度でしょう。しかし、全く関係のない話じゃないんですね。それどころか、言葉の指南役の精神状態を分析したりすることが、言語学的に非常に興味深い問題の答えに対するヒントを与えてくれるんじゃないかと思います。そういうことがだんだん分かってきました。これからは、そんな記事を書いていきたいと思います。 2006年 07月 31日
疑似科学についてもう少し考えてみたい。 前回は、疑似科学がどうとかいう以前に、世界観が薄っぺらなお話の例を取り上げた。今回は、じゃあ政策的にも倫理的にも正しい話に疑似科学が利用されたとしたら、それはどう考えるべきなのか、という問題について考察してみたい。 そこで思い出したのが、ちょっと前に読んだ、ある禁煙教育の記事なんだけれども、どうにも元記事がどこにも見つからないので、細かいところは記憶が間違っているかもしれませんが、まあ、ひとつの例としてあげるだけのでご了承ください。 で、その禁煙教育の内容というのはどういうものかというと、子供たちの前でダンゴムシにタバコの吸殻を食わせるという実験をしてみせるもので、タバコの吸殻を食べたダンゴムシはコロッといっちまう。それを見せた上で子供たちに「やっぱりタバコは体に悪いんですね」という風に教えるというものだ。 ところが、ここにはごまかしがある。ダンゴムシがタバコの吸殻を食べて死ぬというのは事実だが、「ダンゴムシにとってタバコの吸殻が毒だから人間にとってタバコを吸うことが体に悪い」というのは、合理的な推論とはいえない。人間はダンゴムシではないし、喫煙者はタバコの吸殻を食べない。 そもそも嫌煙権運動についてはいろいろ言いたいことがある。嫌煙権運動家の多くは、その言動を見ていると、他人の趣味を貶めることによって優越感を得たいというさもしい根性が動機となって、その運動を行っているように見える。このあたりの動機は「こんにちわ撲滅委員会」とそっくりだ。これについてはあとで別の記事で取り上げるかもしれないが、今回の話題とは直接関係ないので、やめておくことにする。 もちろん、禁煙教育そのものについては文句をつけるつもりない。私自身もタバコを吸わないし、煙たい思いをしているほうだから。現実にタバコが原因で健康を害している人が多いわけだし、多くの人がタバコを吸いはじめたことを後悔しているという現状を考えれば、タバコを吸い始めるまえにタバコについての確かな情報を教えるというのは大事なことだと思う。いうまでもないことだが、それを知った上で、どうしても吸いたいというのは個人の自由だ。 ここでは、前提として禁煙運動は政策的にも倫理的にも正しいということにしよう。問題は、もし正しいとしても、それが疑似科学(敢えて疑似科学と呼ばせてもらいます)を利用して主張されることを見過ごしてもいいのだろうか? いろいろ意見はあると思うが私はよくないと思う。もしかしたら私は疑似科学に過敏になっているのかもしれない。 私はこのような疑似科学を利用した教育がよくないと思うのは、それが「本当に面白い話」を隠してしまうと思っているからだ。 ひとまずタバコが体に悪いかどうかという話はおいておいて、なぜタバコの葉にニコチンなる物質が含まれているのか考えてみると、おそらくは虫に食べられないように毒物としてニコチンを作っているからだろう。実際にニコチンは殺虫剤としても使われているという。ニコチンを作ることはタバコにとっては面倒なことだろうが、食われるよりはましだ。進化の過程でそのような性質が備わってきたのだろう。 ところが面白いことに、このタバコの葉をバリバリ食べてしまう虫がいるという。その名もタバコガ。そのままの名前です。この虫にとってもニコチンの毒を無効にするというのは、それなりのコストがかかる適応だと思うが、そのおかげで誰も食べないタバコという大きな資源を独り占めにすることができるのだ。このタバコガがタバコの葉を食っているところは子供には見せられませんね。 他にもこのように毒性の物質を生産して、昆虫や鳥から自分を守っている植物というのは多い。それらの多くは人間にとっても毒だが、まれに人間にとっても有用なものになる場合がある。人間にとってはほどよいスパイスも、タバコなどの嗜好品も、その多くは昆虫にとっては毒なんだろう。そして多くの薬用植物もそうなのかもしれない。 人間によるこれらの植物の利用は進化論的には適応ではない。人間がアフリカで現生人類にまで進化を遂げるあいだ、これらの「刺激的な植物」とは、ほとんど無縁でいたんだろう。人間が新しい世界に踏み出していく最前線で、これらの「刺激的な植物」をどんどん取り入れていった。「刺激的な植物」は同時に「エキゾティックな植物」ともいえる。長年かかって得た適応ではないがゆえに、ある種の植物はドラッグにもなるのだろう。 合理的な考え方を教えずに「虫にとってタバコは毒なんだから、人間にとっても毒」という例え話を教えるだけで終わってしまっては、本当に興味深い世界の不思議さから目をそらしてしまうことになるのではないだろうか。 <追記> 私は物語という装置を使って世の中をみることを否定したいわけではない。ダンゴムシを擬人化してタバコの害を語ることはよくないことだろう。しかし、それも使い方次第だと思うのだ。私が上にあげたタバコの適応の話にしても、「タバコが毒を造って身を守る」といったような擬人化した表現がある。もちろんタバコがそのような意図をもっているわけではない。しかし、そう考えることで理解する助けになることもある。 2006年 06月 14日
「水は答えを知っている」(江本 勝 著)という本が売れているらしい。 本自体はずっと前から出ていて、知っていたんですけれども、amazonのベストセラーリストにあがっていて、なんでかなと思って調べてみたら、どうやらあるテレビ番組で、あるタレントがこの本を紹介して、興味を持った人が増えたらしい。 この本にはこんなことが書いてある。 「ありがとう」のように肯定的な言葉を見せて水を凍らせると美しい結晶ができる。「ばかやろう」のように否定的な言葉を見せて水を凍らせると崩れた結晶ができる。 これについては、科学的な根拠がないとか、著者がこの本を商売の種として使っているとか、同じ著者による本がトンデモ本大賞にノミネートされたりとか、いろいろいわれてるんだけど、ここではそれについては追及しない。そのタレントやテレビ番組にも含むところはありません。知らないし。 これだけの話だけだと、このブログに記事として書くことはなかったろう。ただ、あるエセ科学の本が売れている、というだけの話だ。何を信じようがその人の勝手だし、フィクションをわかって読んでいる人もいるかもしれない。「これはただの寓話だ」という、とってつけたような意見を言う人もいる。「人という字は二本の棒が支えあって出来ています。だから、人は助け合って生きていかなければなならないのです」というお説教には、科学的な事実は含まれていない。人という字と人間関係のあり方に、何がしかの関係があったとしたら、かなり怖い。この手の屁理屈は嫌いなんだけど、しかし寓話としては成り立っている。「水は答えを知っている」という本に書いていることもその手のお説教と同じなんじゃねーの? 問題は「じゃあ、架空の寓話としてこの本を読んだ場合、どう評価されるべきなのか?」ということだ。物語というものは別にウソがあってもかまわない。ウソかどうか、それ自体は問題ではない。しかし、物語には世界観と人間観が重要だし、それらを提示するのが物語の機能だと思うんだけど、この本で提示されている世界観を見てみると、やっぱり薄っぺらで、どうしようもなく陳腐なものなんだよね。そりゃあ、やさしい言葉をかけてもらえれば、誰だって嬉しいし、それによって自信と勇気をもらうことだってあるだろう。ちょっとでも感謝していることきは「ありがとう」という言葉をどんどん使えばいいと思うし、自分でもそう心がけている。でもさ。だからといって言葉そのものに力があるということではならないでしょ?amazonの評者の一人が書いてたけど、「ばかやろう」という言葉にだって愛情をこめることもあるだろう。反対に「ありがとう」という言葉に慇懃無礼さを感じることだってあるだろう。 話し手の意図を離れたところに言葉の美しさは存在しない。言葉は人間を操るプログラムではない。人間は言葉というプログラムを実行するコンピュータではない。言葉は、自己と他者の間、あるいは自己と自己との間の、思考の伝達を行うためのインターフェイスだ。言葉は使えば使うほど、手垢がついてきて意味も変容する。それこそが言葉の本質であり、不思議さであり、素晴らしさなのだ。 この本の世界観は、言葉そのものを「美しい言葉」と「醜い言葉」に分類できるとする、平板なデジタル思考によって成り立っている。 出来の悪い寓話。これがこの本に対する公平な評価だろう。表面だけを見て本質をみようとしないこの手の薄っぺらな二元論は「こんにちわ撲滅委員会」にも共通する。ただ「こんにちわ撲滅委員会」と違って、他人を貶めてつまらない優越感を得るためにエセ科学を利用しているわけではないので、こっちのほうは罪はないのかもしれない。 <追記> amazonに茂木健一郎氏による同書の書評がある。まじめな人や。 2006年 05月 31日
読売新聞のニュースサイトに「認知症予防は運動・栄養・昼寝…厚労省で研究データ」という記事が載ってた。 記事の内容をかいつまんで言うと、軽い運動をしてDHAなどの栄養を取って昼寝をした人、つまり生活習慣を改善するように指導された人とそうでない人を比べてみたら、前者の方が認知症の発症率が低かったという結果が得られたそうだ。こういう話を聞くと、普段の自分の生活習慣を思い出してみて、ちょっとあぶないかな、と思ったりもする。 ところで認知症に関してこういう研究結果が報告される一方で、計算ドリルとか読み書きのテストなどのいわゆる「脳トレーニング」をすれば、認知症の予防に役立つ、と主張する人もいる。 疑問に思ったんだけど、本当のところどっちが正しいんだろう。いや、こういった問いかけは不公正かもしれない。というのも「どっちとも正しい」ことだって、もちろんあるからだ。 そこで脳トレと認知症の関係についてちょっと調べてみた。といってもWebを検索しただけなんだけどね。ところが、いろいろ調べたんだけど、脳トレをやったら何パーセント認知症が予防できたかって話はなかなか出てこない。私の調べ方が悪いのかもしれないし、もちろんWebに乗っかってるのは情報の一部に過ぎないので見逃しているかもしれない。ただ、「脳トレをすると認知能力を測るテストの点が向上した」というデータはあるみたいだ。「なるほど。だったら認知症予防に脳トレは効果があるんじゃない」と思いたくもなるが、一概にそうともいいきれない。一時的に認知能力が向上するのと、認知症が予防できるのとでは全く意味が異なるからだ。 「脳を鍛えれば認知症が予防できる」というのは、直感的に受け入れやすい話だ。体だって鍛えれば強くなるし、脳だって同じことじゃないかと思うのは自然な発想だ。現に子供は勉強することによってどんどん認知能力が向上するでしょ? しかし、大人の脳って本当にそんなものだろうか?ひょっとしたら大人の脳はポンコツ自動車なのかもしれなくて、使えば使うほど故障する危険性が高まるのかもしれない。この元記事によると、少なくとも昼寝には効果があるみたいだ。もって回った言い方をしているようだけど、実際のところ何が効果があったかなんてのを、一つだけ要素を取り出して評価するのは難しい。もし、大人の脳がポンコツ自動車みたいなものだとすると、認知症の予防のためには「鍛える」という発想ではなく「貴重な資源をムダなく使う」という発想が必要になってくる。脳トレをやっている人は、そのような貴重な資源を計算のような作業に無駄遣いしてるのかもしれない。 脳トレに関して今言えるのは、寝不足や運動不足にならない程度にやれば一時的な効果はあるし、ひょっとしたら認知症の予防に役立つかもしれない、ということぐらいだろう。 で、なんでこんなこと書いたかというと、この読売新聞の記事が出るちょっと前に、某テレビ番組で読売新聞(皮肉にもこの記事が掲載された新聞)の橋本とかいう偉い人が出てきて「本を読めば認知症(アルツハイマーだったかもしれない)になんかならない!」って言ってたんだよね。そのときは「そんなこと言っていいのかなあ」とは思っていたものの、なんか根拠があって言ったんだろうぐらいに思ってたんだけど。でもね。今回いろいろ調べたけど「本を読めば認知症にならない」なんて話はどこにもなかった。この人は何を根拠にこんなこと言ったんだろう。 たぶん、この橋本って人は本を読むのが好きなんだろう。だから「本を読むと認知症にならない」と思いこみたいんだろう。まあ別に本人がそう思いこんでいるのは勝手だ。でもね。日本中が見ているテレビ番組の中で、根も葉もない俺理論を、さも真実のごとく言いふらすのって、よくないんじゃないかな?この人は気づいていないかもしれないけど、こういう不確実な知識が蔓延すると、認知症に対する偏見が深まりかねないし、本当に必要な予防対策が遅れる可能性だってあるんだよね。 ちなみに、この人は読売新聞の「新日本語の現場」っていう記事の監修をしているそうだ。 2006年 04月 30日
「こんにちわ撲滅委員会」の会員さんたちの書いているものを読んでいると、痛々しい欧米コンプレックスにまみれた言説に気がつく。 「こんにちわ撲滅委員会」の管理人自身が、「Link Freeとは、和製英語で・・・」などと、まるで和製英語そのものが悪であるということに、まったく疑問をいだいていないようで、読んでいるこっちが恥ずかしくなってくる。当人は恥じいるどころか、その知識を自慢しているようにすら見受けられる。 「英語の冒険」という本で、メルヴィン・ブラッグが言っているように、言語の規範の押しつけは、「階級意識と俗物根性」に容易に結びつく。欧米では階級意識というものがいまだに根強いが、日本では、この階級意識というものが、欧米に対する劣等感という歪んだ形であらわれることが多い。そのことを「こんにちわ撲滅委員会」は、改めて思い出させてくれた。 先日も「こんにちわ撲滅委員会」を肯定的に紹介していた、あるブログで、一つの髪型を評して、「これはアメリカでは田舎もんの代名詞です」なんてことを書いている人がいた。 おいおい、米国人の恥ずかしい階級意識を肯定してどうすんの? 我々日本人は、むしろ、それを諌める立場にあるんでねーの? 同じことは、表記の基準についてもいえる。もし欧米人が効率の悪い表記方法を採用していて、識字率の低さに悩んでいるというのなら、効率のいい我々のやり方を、彼らに教えてあげるべきだと思う。和製英語でも、いいものがあったら、どんどん教えてあげよう。 彼らの議論のおかしさは、その言説のなかの欧米文化の部分を、アジアやアフリカなどの、その他の文化に置き換えてみればよくわかる。たとえば、 「タガログ語では、このような言葉の使い方をするので、日本語もこうあるべきだ」とか 「そんな髪型して恥ずかしくないのですか?そのような髪型は、インカ帝国では、奴隷の印とされていたのですよ」 といったように言い換えれば、それらがばかばかしいジョークになってしまうことから、そのことを理解していただけると思う。 そう、「欧米では、こうだから、日本でもそうあるべきだ」という議論は、「面白くないジョーク」なのだ。 2006年 03月 31日
「美しい景観を創る会」というのがあるらしい。 この会のホームページで「悪い景観100景」ってのがあって、いろいろと醜い景観を有する場所が指摘されている。マツモトキヨシの看板だの、日本橋の高速道路などが槍玉にあげられている。 この会については、敢えてコメントはしない。勝手にやればいいと思うだけだ。ただ一つだけ言えるのは「どこの世界にも、この手の人たちはいるんだなあ」ってこと。 下の写真は、某駅前の宝くじ販売所を、私が撮ったものなんだけど、この手の景観っていうのは「美しい景観を創る会」とか「こんにちわ撲滅委員会」的な感覚からすると、いかにも槍玉にあげられやすいものだと思う。なにしろ色彩は派手で、欲望がそのまま丸出しになっていて下品だ。文化の蓄積や作者の修練と努力のあとといったものは、かけらも感じられない。しかし、私はこういうのがすきなんだよね。去年の万博で各国の展示物を見たときにも思ったんだけど、こういうのを見てるとある種の願いというか祈りのようなものが強く感じられる。人間の生々しい欲望の集積地という点では、宝くじ売り場は神社と同じだ。だから、宝くじ売り場に、鷲(おおとり)神社の酉の市の熊手や、今宮戎神社の十日戎の笹と似たような色彩配置があったとしても別段不思議ではない。私にとっては、それらは等しく興味深いものだ。 だから「悪い景観100景」と聞くと、むしろ積極的に写真を撮りに行きたくなる。「悪い景観100景」の写真をたくさん撮って、できればなんらかの形で公開できればと思っている。 ![]() 2006年 02月 09日
表記方法を評価する基準として、以前の記事で、記述者から読者にどれくらい正確に意図を伝えることができるか、という点を上げた。それを表記方法の「完全性」と名づけた。そのときは触れなかったが、表記方法を評価するうえでの、もうひとつの重要な基準は、「その表記方法を取得するのに、それだけ容易に取得できるか」という点である。しばしば、この両者は相反する関係にある。たとえば、取得が簡単な表記は意思をすばやく正確に伝えるという意味では、劣ることがある。しかし、取得が容易な表記方法が、必ずしも完全性で劣るというわけではない。取得が容易で、かつ伝達の効率が高い表記とは、どのようなものなのだろうか? 読み書きが人間が発明したものである以上、表記方法はエンジニアリングの対象となるはずだ。優れた設計をなされた表記方法では、習得が簡単な表記方法から、完全性の高い表記方法に、段階的に移行ができるはずである。 これは、コンピュータのCUIとGUIの違いを例に出すとわかりやすいだろう。私が初めてMacintosh SE30を買ったころは、GUIは珍しいものだった。一部の人たちからは、「遊んでいるようにしか見えない」とか「おもちゃみたい」とかよく言われたものだ。マウスを持って操作するのは、とっつきやすいが、キーボードから手を離す必要があるために、キーボードによるコマンド入力操作に慣れている人には煩雑に感じる。これは事実である。しかし、Macintoshのキーボードには、その名もコマンドキーというものが存在しており、そのコマンドキーと他のキーを組み合わせることによって、よく使用するコマンド操作をキーボードだけで起動することが出来る。そして、多くのコマンドでは、コマンドを履行するための選択オプションを入力するためのダイアログが表示され、必要なオプションをユーザーが入力することが可能になる。慣れてくれば、これらの操作はほとんどキーボードだけで可能になる。もちろん、このことはWindowsでも同じであり、現在Windowsを使用している人にとって説明するまでもないことだと思う。習熟した使用者がキーボードのみを用いて行う操作自体は、CUIからコマンドを入力して引数にオプションを与えるものと基本的には同じだ。ただ、その操作を習熟するまでの段階が、GUIでははるかに容易なのだ。 翻って表記の問題に戻ってみると、このような段階的な習熟といったことを考えた場合、表記方法の画一化は、効率を高めるどころか、むしろ、取得にかかるコストを増大させるだろう。そして、学習のコストの増大化は、読み書きを習得できるコストを払える人とそうでない人の格差を広げる可能性がある。読み書きは伝統の継承や個人の趣味といった問題ともからんでくるが、「読み書き能力を取得することがあらゆる人間にとっての権利である」とするならば、エンジニアリング的な視点に立った議論が必要になってくる。すでにそのような難しい表記方法を習得した「知的既得権の所有者」にとっては、より習得が容易な表記の登場は脅威に感じるだろう。しかし、自分の立場を尊重しすぎるあまり、読み書きの取得時のコストを無視した議論を行うと、「伝統の継承」ではなく「因習の押し付け」に陥る危険性があるだろう。 2005年 12月 16日
歴史的仮名遣いについての私の立場を明確にしておきたい。 なぜなら、こんにちわ撲滅派の人と話したときに、私はしばしば歴史的仮名遣いの表記方法を例に出すことがあるが、彼らは一様に「そんなの歴史的仮名遣いじゃないですか」といったような反応を示す。歴史的仮名遣いは古臭くて非合理的な遺物だと思い込んでいるようなのだ。学校で教える日本語を「正しい日本語」とし、日常生活に障害をきたさないように表記の標準を定める必要があるという、いわば教育的な観点からすると、歴史的な仮名遣いは「正しくない日本語」なのだろう。 それでも私は、歴史的仮名遣いは「正しい日本語」だと思っている。むしろ、その意義をもっときちんと学校で教えるべきだとすら考えている。時期としては中学校に入ってからでいいと思う。もちろん中学校になれば国語の授業で古典を読ませるが、歴史的仮名遣いの意義についてまで、まとまってきちんと教えられることはほとんどない。 なぜ、私が歴史的仮名遣いの意義を学校で教えるべきと考えているのか。 たとえば「今日」という言葉に音読みでかなをふる場合を考えてみよう。現代仮名遣いでは「きょう」と振る。歴史的仮名遣いでは「けふ」とふる。小泉今日子は「こいづみけふこ」となる。この表記を見て、なんとなく濃罪毛深子という漢字を想像した人がいたとしても、その人を責めることはできないだろう。 正直いうと、子供のころ私はこのような表記に違和感を覚えたものだった。現代仮名遣いを教わって慣れ親しんできた人間で、歴史的仮名遣いに慣れてない人は、この表記に違和感を覚えるだろう。しかし「今日」に「けふ」と振り仮名を振るのは、「今朝」に「けさ」と振り仮名を振るのと同じという意味では、一貫性がある。さらに、「今」という漢字に「け」を振り、「日」という漢字に「ふ」というかなをふることにより、漢字とかなの対応が一対一に対応しているという意味では、合理的なのである。これだけ一貫性があって合理的で、なおかつ「本来の使われ方」にそった仮名遣いにもかかわらず、「けふ」という振り仮名には違和感を覚えてしまうものなのだ。げに恐ろしきは習慣である。 このことから、一般的に言って、違和感と「元々の使われ方」には直接の関係がないことが、お分かりいただけると思う。何度も言ってきたが「こんにちわ」に対する違和感とは単に慣れの問題なのであり、正当化されるべきものではないのだ。ところが、こんにちわ撲滅委員会では「こんにちわ」というたったひとつの例をもとに、違和感と「元々の使われかた」には相関関係があるかのごとく主張し、さらにはその相関関係を因果関係に、無反省に昇格させてしまっている。ここに合理的思考のかけらもないことは明らかである。さらに「英語でHelloと書くんだから、日本語で『こんにちわ』と書いてもはおかしくない」などとのんきなことをいっている。あまりにもひどいので、最初読んだときは「面白くないジョーク」だと思ったぐらいだ。 「こんにちは」に限っていうと、「こんにちは」の「は」に助詞としての意味が失われている以上、「こんにちわ」という表記にも十分に意義がある。 結局のところ、これは個人の趣味の問題、もっというと信仰の問題なのだ。「検証」などするのはばかげている。 ところで、あらゆる信仰に関して以下のガイドラインを設けることには同意していただけると思う。
さて、なぜ私が歴史的仮名遣いの意義を学校で教えるべきと考えているか、お分かりいただけただろうか?現代仮名遣いというものが、恣意性の塊であり、妥協の産物であることを知り、歴史的仮名遣いの意義を知ってさえいれば、「こんにちわ」という表記に対する自分の違和感を相対化することが可能であったろう。そのためにこそ歴史的仮名遣いの意義を教えるべきなのだ。やはり無知は罪である。歴史的仮名遣いを教えることによって表記が乱れる、と心配されるかたもいるかもしれない。しかし、表記の乱れを恐れるより、無知による偏見を恐れるべきだと思う。 私は「こんにちは」を使う。いつか「こんにちわ」が認められたとしても「こんにちは」を使い続けるだろう。しかし、それが一種の信仰だということを知っている。 2005年 11月 28日
★「複雑な世界、単純な法則」 マーク・ブキャナン著 いわゆるスモール・ワールド・ネットワークに関する本だ。 スモール・ワールド・ネットワーク関係の本としては他に、 ・スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法 ダンカン・ワッツ著 ・新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く アルバート・ラズロ・バラバシ著 などがある。これらは、実際にスモール・ワールド・ネットワークを研究する科学者が書いたもので、前者はブキャナンが「平等主義的ネットワーク」と読んでいるネットワークの発見者で、後者は「貴族主義的ネットワーク」と呼んでいるものの発見者による著作である。ジャーナリストであるブキャナンは、この「複雑な世界、単純な法則」のなかで、バランスよく両者を紹介し、この分野で現在進行中の研究成果の見通しをよくしてくれる。 と、ここまでは書評的な話で、ここからが本題。 この本を読んで思ったのだが、ネットワーク理論は、言語の研究にも大きな寄与をする可能性があるんじゃないだろうか。 ひとつ例をあげたいのが、スモール・ワールド・ネットワークで起こる雪崩(カスケード)と呼ばれる現象だ。これは、ひょっとしたら測定することすら不可能なほど小さなゆらぎから起こる急激で大規模な変動のことで、ある種の構造をもつネットワーク内部で、入力と出力が比例しないいわゆる非線形のフィードバック回路が活性化することによって起こりえる現象だ。 注目すべきは、もし言語が同じスモール・ワールド・ネットワークであり、内部的に雪崩現象を起こしやすい構造を持っているとするならば、社会的な変化や文化的な波にさらされているといったような大きな原因はなくても、突然何の前触れもなく大きな変化が言語にも起こりえる。それこそ、言語自体に意思でもあるかのように「自発的に」振舞うことがありうることを予言する。ネットワーク理論は、そのような今まで説明不能とされてきた不思議な現象に適切な説明を与えてくれるかもしれない。 次に、言語がスモール・ワールド・ネットワークであり、雪崩現象を起こす可能性があるということを前提にして、言語の分岐の年代を測定するという問題を考えてみよう。物理学では、炭素14などのように、時間が経過するごとに崩壊する同位体元素の割合を調べることによって、時間の測定を行う。生物学では、遺伝子の変化する割合によって時間の測定を行う。いずれにしても時計として使用しているのは、ランダムに一定の割合で変化する定量化可能な性質である。 今述べたように言語の歴史には、大きな変化が起こっている「非平衡時代」と呼ばれるべき時代と、比較的変化の少ない「平衡時代」があり、ランダムに一定の割合で変化しないものなのかもしれない。この変化の速度の急激な変動は、古生物学の世界では、スティーブン・J・グールド氏によって「ワンダフル・ライフ」という本で紹介され注目された「カンブリア紀の爆発」が思い出されるが、それと同じようなことが言語の世界でも起こりえるのかもしれない。さて、もしそうだとすると、言語の変化の割合と調べて言語の分岐年代を割り出すという手法は、やっかいな問題を抱え込んでしまうことになる。なぜなら、そうなったら時計の針に相当する言語の変化が時間に比例しなくなるからだ。ある瞬間に突然、針の進み方が速くなったり、突然針の進み方が遅くなったりする時計を使いたいと思うだろうか?進み方が一定でない時計を信用することはできない。その危険を避けるためには、言語の分岐年代を測定するための特徴の抽出を極めて慎重に行わなければならないだろう。条件としては、ネットワーク的には他の要素とのつながりが薄く、トポロジー的にいうと離れ小島になっており、それゆえに淘汰圧の大きな変化にさらされることがなく、さらには測定する時間スパンに都合のいい頻度で、ある程度ランダムに変化がおきている、そんな特徴を抽出しなければならない。これは随分ハードルの高い条件のように思われる。もしかしたら、そんな都合のいい特徴を抽出することは不可能なのかもしれない。結局は「分岐してから1000年以上経った言語の分岐年代を測定することは不可能である」といったようなつまらない結論が導き出されるのかもしれない。 いずれにせよ、そのような特徴を抽出することが可能かどうかを知るためににも、まずは言語のネットワーク的な構造を明らかにする必要がある。 最後にひとこと。 複雑系の研究者は、もっと言語にも興味を持って欲しいと思う。生物学とか経済学に行く人は多いんだけど、なぜだか言語のほうに行く人は少ない。ちょっとこれは残念なことだと思う。この本のなかでも言語のネットワーク的構造については、その貴族主義的側面について少し触れられている程度だ。複雑系の研究者にとって言語研究の世界には、大きい未開拓な領域が横たわっているように思うのだが。 2005年 10月 27日
★脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ V・S・ラマチャンドラン (著), 山下 篤子 (翻訳) この本を読んで、私がここで書いてきたことに、裏づけがされたと思ったり、逆にちょっと考えが足りなかったなと思うことがあったので書く。 ラマチャンドランは、この本のなかで、共感覚など、現実に存在する不思議な脳内現象の観察から、芸術の起源についての彼自身の仮説を披露している。 ここでは詳しくは述べないが、まあ、ピンカーが「人間の本性を考える」で書いていた路線と同じで、芸術の基盤を人間の視覚的本能に求めている。ただし、ピンカーはついでに、いわゆる「現代美術」と呼ばれているものに対してかなり批判的で、コテンパンにやっつけている。それに対して、私は「ちょっと違うんじゃないの?」と思ったわけで、これについては前に書いた。 一方のラマチャンドランは、現代美術に関しては「牛のホルマリン漬け」の例を引き合いに出して、現代美術が持つ、ジェットコースターと同じような、恐怖の予行演習としての存在意義にも一定の理解と可能性を示している。また、伝統的かつ一般的な視覚芸術と、その他のいわゆる「ジェットコースター芸術」を含む大きな意味の芸術を分けて考えるべきではないか、ともいっている。そういう面では私も同じ考えだ。ただ、ラマチャンドランが現代美術の積極的な理解者であるかどうかは、本書を読む限り疑問だが・・・。 私が以前、芸術が持つ意義の広さを示す目的で、バンジージャンプとか、ジェットコースターを引き合いに出したのは、たまたまわかりやすい例としてあげただけだ。私は「ジェットコースター芸術」の意義を認めたとしても、それだけではまだ芸術の意義をすべてカバーするには十分でないと思っている。 ただ、すくなくともこれだけはいえる。芸術とは、頭の中にある雛形が、外に形として現されたものである。われわれは、それらの具現物を作りたくなったり、それらを見て時にここちよくなることがあるらしい。 なぜ気持ちよくなるのか?それらの具現物は、役に立つどころか、じかには役に立たないガラクタばかりなのにもかかわらず、なぜそんなものを作りたいと考えたり、見たいと思ったりするのか?。 ひとつの説明としては以下のようなことが考えられるだろう。世の中が変化をして、何かの対応を迫られたときのために、頭のなかで雛形を動かす必要がある。しかし、環境が変化した場合は、今までの発想では最適な解答を得られない可能性がある。そのときのために、できるだけ発想あるいは機転が及ぶ範囲を広げておく必要がある。そのために芸術を愛する気持ちが生き残ったのかもしれない。環境がかわったときに役に立つ発想は、環境が変わらないかぎり、役に立たないことがほとんどだ。 変化のない世の中に住み続けたいと思っている人には芸術は必要ないだろう。 また、人間が新たな世界に漕ぎ出していく存在であるかぎり、芸術は死なないだろう。 <追記> ラマチャンドランさんは、この本の中でもう一つ重要な仮説を披露しています。言語の起源に関するものです。本来なら、このブログの性質上、こっちのほうを大きく取り上げるべきなんでしょうけどね。 脳の表面の地図に線を結んだりして、脳神経科学者らしい発想だなと思ったりしました。で、その説について私がどう思ったかというと「よくわかりません」なのだ。 あと、ブーバとキキとか、言語学者が触れないようにしてきた、いわゆる「名は体を表す」的な話にも触れています。ところで、ブーバとキキでググると「電撃戦隊チェンジマン」というのがいっぱいひっかかってきます。いったいなんなんでしょうね。ラマチャンドランさんの説を検証する一つの材料になりそうです(笑)。 2005年 09月 30日
日本語の特徴を示して、それを日本人の特殊性に結び付けてみせるという、アクロバティックなエッセイが量産されている。たとえば、このようなエッセイは誰でも読んだことがあるだろう。「出る杭は打たれる」ということわざを取り上げ、それを日本人の個性を嫌う性向と結びつけ、これからの国際社会に向けて、他人と異なることを恐れず、突出する勇気を持つべきだ、といったような結論に結びつけるものがある。 ほかには、このような例はどうだろう。 「こんにちは」という挨拶言葉が「こんにちは云々」という挨拶の省略形であるという語源を説明したうえで、「このような挨拶言葉が成立するのは、話し手が最後まで言い切らないことによって、聞き手に押し付けがましさを与えない配慮しているのであり、その一方で、聞き手としては最後まで聞かなくても相手の言うことを推し量ることができる。そのような繊細な感性を日本人は昔から持ちあわせてきたのである」と続ける。この例は今、私がでっち上げたものだ。 これらのエッセイは、目をつぶって辞書を開き、指でさした言葉を選んで、語源や外国語などの薀蓄をちりばめ、あとは日本人の特徴(といわれている性質)と結びつけ、最後に「これからのグローバル化社会にむけてどーたらこーたら」とか「繊細な感性を大事にしよう」とか、適当に我田引水すればいっちょう上がりということで、小論文とかエッセイのネタに困ったときにはとても便利である。 このような日本語エッセイにいちいち難癖をつけるつもりはない。ただ問題があるとすれば、それらのほとんどすべてが実証性にかけており、個人の思い込みをよりどころにして書かれている、という点である。「日本語は難しい」とか「日本語は論理性にかける」といったような、よく言われる説についてすら、もっともらしい根拠が示されたことはない。これらの「お手軽日本語エッセイ」が、日本人論、特に日本人特殊論と結びついている場合は、まずは単なる言葉の遊びだと思って読んだほうがいいだろう。 ただし、これらの言説がまぐれあたりをしている可能性も否定できない。じつは、通俗的な日本語特殊論への批判を抜きにして、「日本語論+日本人論」はとても興味深くて難しい問題と関わっている。それは、言語と思考方法はどのように相互作用するのか、という問題だ。 2005年 08月 05日
以前、パオロ・マッツァリーノ氏の著作「反社会学講座」への書評において、エセ社会学とエセ言語学の類似性について書いたことがあった。 残念なことだが、エセ社会学のような存在は、言語学に限らず、人文科学あるいは社会科学のあらゆる分野に見られることのようである。 ここで注目したいのは経済学だ。社会科学のなかで最も陰気で、もっとも忌み嫌われており、まるで科学者によって、社会科学の楽園に送り込まれたスパイのごとき存在である。 では、なぜ経済学は嫌われるのだろう。 その原因は、人間が長年の間に培ってきた本性にある。 人間の推論能力は、他人の抜け駆けを見抜くように発達してきた。ここでは詳しく説明しないが、コスミデスが示した4枚カード問題に関する実験は、このことを強く暗示している。 「おいしい思いをしている人間をたたけば、自分が得をする」とか「今、我慢をすれば、将来楽になる」といった言説は、限られた資源をめぐって争っていた狩猟採集生活時代であれば、確かに正しい。しかし、人間が農耕を始めて余剰生産が生まれ、分業が発達し、ついには産業革命にいたるまでになってみれば、その推論は必ずしも正しいとは限らない。現代の人間は商取引を行う。商取引は、取引をする当事者双方にとって利益があるからこそ行われる。こうなってみれば、長い狩猟採集生活の時代に取得してきた論理操作手法が、現実の経済活動と齟齬をきたすことは、避けられない。「おいしい思いをしている人間に、さらにおいしい思いをさせて、自分も得をする」とか「今、我慢をしないことが将来の自分に利益をもたらす」ということが、起こりえるのだ。もちろん、このような言説を非道徳的だと思った人がいたとしても、その人を責めるわけにはいかないだろう。 このような、人間の本能的な論理操作に頼った経済の理解のしかたを「直感経済学」とよぶことにする。直感経済学は経済学と名がついているが、心理学の一分野である。 これからは、直感経済学の研究をもっと積極的に行うべきだろう。それによって、なぜ経済学が多くの人に理解されずに、多くの施政者たちによって誤った経済政策が採用され続けるのかといった問題に、示唆を与えてくれるからだ。 そして、個々の人間が、そのように時には非合理な考えをする存在であるという前提に立ってこそ、本当に役に立つ経済学が生まれるだろう。 2005年 06月 30日
表記方法を評価するにはいくつかの基準が考えられるが、もっとも基本的なのは、その表記によって、どれぐらい正確に、記述者から読者へ意図が伝えることができるか、という点である。ここでは、それを「完全性」ということにする。 それでは、ある表記の完全性を定量的に測定するにはどうすればいいのだろう。 ここで、例の「表記の多様性に関する多層モデル」が役に立つ。 多層モデルにおいて、ある表記方法の完全性は、標準表記との変換効率によって計測される。 ごく、おおざっぱな方法を説明すると、標準表記で記述された文章があったとして、その文章を測定対象の表記に変換し、さらに、逆にその文章を標準表記に再変換して戻したときに、元の標準表記で書かれた内容が保たれている割合が、測定対象となる表記方法の完全性とすることができる。 当然のことながら、標準表記自体は、変換する必要がないわけであるから、完全性は1である。これは、標準表記がこれ以上ない完全性を持った表記であるという前提があって初めて成り立つ議論である。 2005年 05月 30日
★ 桜が創った「日本」」―ソメイヨシノ起源への旅 岩波新書 佐藤 俊樹(著) 人間は、外の世界にある物の雛形を、頭の中に再構築する動物だ。頭の中の雛形を動作させることによって、何か事を行う前にテストを行い、ぶっつけ本番の危険を避けることが出来る。 その機能は人類の進化の過程で、最初はある環境のもとで後天的に取得することが必要とされていたものが、だんだんと遺伝子に組み込まれていったのだろう。 その雛形を動かしてテストを行う際に必要な媒体が「言語」であり、テストの内容の記述が「物語」である。物語の登場人物は、われわれの代わりに成功し、失敗する。ダーウィニズムの世界観によると、生物は死の数だけ進化するということだが、人間は頭の中で、膨大な仮想の死を発生させることによって、文化的進化の速度を早めているということが言える。 頭の中の雛形は外の世界そのままの写しではない。たいていの場合、ある特定の特徴が抽出されデフォルメされている。面白いことに、しばしば頭の中にあるデフォルメされた雛形が、外の世界にはみ出してくることがある。 それが、この本のテーマである。 この本では、桜という花が日本人の頭のなか理想化され、「桜語り」という「もの語り」が作られ、最後にはその「桜語り」が、現実の桜を変えて、ソメイヨシノという「革命の花」を作り上げてしまう過程が詳細に記述されている。 ソメイヨシノが出現し、桜と日本人の関係が現実の花を改良するまでにきた段階で、一つのポジティブフィードバック回路が作用する。それは、現実化されたソメイヨシノが、さらに日本人の「桜語り」を改変し、その「桜語り」がソメイヨシノを増殖させる、という動きだ。一旦そのループが発動すると、外の世界と頭の中の世界がまるで競争するかのごとく、お互いを変更し始め、平衡状態に達するまでそれが続けられる。 そして、重要なのは、この段階で、人工と自然といったような二項対立の境界があいまいになってしまうということである。同様のテーマを扱った最相葉月の「青いバラ」は、残念ながらこういった視点にかけており、人工と自然の対立という発想から抜け出ていなかった。 純粋に自己複製子だけを取り上げ、「ソメイヨシノ遺伝子」と「桜語りミーム」が表現型を作り、相互作用する系として、この現象を捉えた場合、ソメイヨシノと日本人は、ある種の花と昆虫のような濃密な共生関係を構築しているといえるだろう。また、あえてソメイヨシノ側からみた境界を広げてみせれば、「ソメイヨシノは、さくら語りミームに寄生された植物だ」という言い方も可能になる。これは真核細胞とミトコンドリアの関係に似ていて、当初は独立して生きていたミトコンドリアが、原「真核細胞」に寄生し、あるいは取り込まれ、長年共生関係を積み重ねるうちに、序々にミトコンドリア遺伝子が核に移動し、もはやミトコンドリア単体しては生きていけなくなった過程を思い出させる。境界の消滅がここでも見られる。 「ソメイヨシノ遺伝子」と「桜語りミーム」が共生関係を濃密にしていく回路を逆に作用させ、失われた二項対立を取り戻し、「本来のあり方」に憧憬を抱く気持ちは理解できるが、それは、あらゆる「桜語りミーム」を絶滅させる以外に道はない。 一切の「桜語り」をやめ、古代人が見ていたように、あるいは科学者が見ているように、一つの花として桜を見ることは、もはや不可能ではないだろうか。 2005年 04月 25日
現在開催中の愛知万博では現代美術もこっそり展示されている。 万博会場でみた現代美術は意外に目を引くものだった。なんで意外だったかっていうと、こんなふうに現代美術も伝統工芸もごたまぜになって展示されるイベントは万博以外にはめったにないわけで、そうなりゃどうしてもお互いを比べてしまうし、東南アジアとかアフリカの濃いやつと比べられると、現代美術は負けてしまうんじゃないかな、と思ってたのね。実際、ぐるっと回って最後にインドあたりにきたときには、伝統工芸の力に圧倒されて頭が疲れきっていた。何でこんなに頭が疲れるのかというと、何せ彼らはとにかく見ているだけでやたらめったら話しかけてくる。そんなおしゃべりにいちいち反応していては頭がもたない。 「何が語りかけてくるって?人が作った物を見てるだけぢゃないか。ええ?おまいさん頭おかしいんぢゃないの」というかもしれない。いえね。もちろん実際に誰かが話しかけてくるわけじゃないよ。ただ、それを見ていると、話しかけてくるような気がするというだけなんだ。たとえば、ネパールにはマニ車というものがあって、それにはお経が書いてあって、ぐるぐるまわせるようになっているもんなんだけど、こいつを人がぐるーっとまわすと、そこに書いてある経文をを唱えたのと同じご利益があるというふうに信じられている。で、そのマニ車をみていると、それを回している人の願いとか祈りみたいなのがジワーッと感じられてくるわけ。 ね、語りかけてくるでしょ? たとえば、おちゃわんでも何でもいい。そんなもんでも見ているだけで、日ごろ使っていた人の気持ちというのが伝わってくる。「食器を百年使うと意思を持つようになる」ってえ話があるけど、単なる迷信というよりそういうことなんじゃないかな? 特に歴史のある国の歴史ある物では、その語りかける量たるや並大抵のものではない。インドなんてうるさくてしょうがない。「もう、これ以上俺に話しかけないでくれ!」って感じ。 なんの話をしてたっけ? そうそう、現代美術だよ。現代美術も同じように語りかけてくるんだけど、語りかけ方が伝統工芸なんかとはちょいと違う。どっちかっつーと、理屈っぽくて、「私、思いますに・・・」とか「俺に言わせりゃ・・・」とか、「俺が俺が」的な主張が強すぎるように思う。 さっきもいったように、今回の万博では、どんな展示があるか知らずに観たんだけど、岡本太郎風に、いい意味で「なんだこれは!」と思った物体をいくつか会場でに見つけて、興奮して写真を撮りまくったりなんかしてたんだけど、あとで調べたら「だれそれの作品です」ってことがわかったりしてね。そういう意味では(どういう意味だ?)見ようによっては現代美術もすてたもんじゃないぞと、かように思ったわけです。 よーするにね。現代美術のダメなところって、実は美術館とか展覧会とかで繰り広げられる「俺が俺が」的な文脈そのものにあるんじゃないかな、と思ったというわけ。 現代人は、無意識のうちに、作者の意図を通して作品を見てしまう。でも、それってちょっと不幸なことなんじゃないだろうか? ![]() |
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