2008年 12月 18日
すこし前に放送された番組ですが、いい内容だと思ったので紹介します。 読み書きというものが人間の発明品であるということ、そして、その発明品に人間自体がまだ十分に適応していないということ、そのことが明確に示されたのはよかったと思います。 ただ、もうすこし説明してもよかったな、という部分もあります。 ひとつには、読み書きを行うときの脳内の処理ですが、番組ではひとつの経路が示されていましたが、実のところ、読み書きの処理については、もっと多様な方法があり、文字の種類(たとえば漢字)では違う回路で処理が行われていると考えられています。その点について説明がなかったのはちょっと残念です。 しかしながら、テレビという枠でそのことを説明すると、本筋がぼやけてしまうということはあるかもしれません。これはテレビというメディアの持つ宿命でしょう。 もうひとつ、番組では「人間の体が文字に適応しきれていない」というような言い方をしていましたが、これはいったいどういうことなのか、ということを明確にしてほしかったと思います。普通に考えると、もっと教育のやり方を工夫して、誰もがある程度の読み書き能力を得ることが出来るのでは、と考えたくなりますが、そのような過程で適応できる範囲には限界がありますし、個人ごとに支払うコストに大きな差が生じることには変わりがありませんから、結局不公平になります。 現時点では、人間の体を文字に適応しようとすれば、ダーウィン的な自然淘汰の過程を通して人間の肉体の進化を待つしかありません。そして、それは恐ろしい意味を含んでいます。というのも、それは人間が自分たちの発明したものによって選別される、ということを意味しているからです。 わかりやすいように、自転車の類似で考えて見ましょう。 もし、自転車がおしきせの一種類しかなくて、それを乗りこなせないと生活できずに死んでしまう、という世の中があったと想像してみてください。そんな世界に住みたいと思うでしょうか?それは本当に恐ろしい世界だと思います。しかし、現状ではゆるやかではありますが、そのような過程が進行中であるといえます。 しかし、人間は死を教師とするほどおろかな存在ではないと私は信じています。 このような恐ろしい世界を回避するには、読み書きをあきらめて歴史以前の世界に戻るか、読み書きのやり方を変えるしかありません。 もちろん、われわれは読み書きを捨てることは出来ないところにまですでに来ています。 前にも言いましたが、やはり読み書きの手段を扱うためにはエンジニア的な見方を通して読み書き方法の設計図を見直す必要があるでしょう。われわれにはその道しか残されていません。 しかし、その前には大きな障害があるでしょう。特に、現在の読み書き方法にたまたま適応している人から見れば、読み書きの方法を修正したり、多様性を認めたりすることは、既得権を手放すことになりますから、大きな抵抗が起こるでしょう。彼らは、自分たちと違う読み書き方法を使用している人たちに対して、文化的に劣っていると決め付けたり、彼らは努力が足りないと言ったり、あるいは、このような間違った読み書き方法がはびこると言葉が壊れてしまう、といったような脅しをかけてくるでしょう。 #
by torafuzuku
| 2008-12-18 13:55
| 役に立つ文献とリンク
2008年 03月 18日
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かも寝む 柿本人麻呂 先日、テレビを見ていたときのことですが、日曜美術館という番組に作家の田口ランディさんという人が出ていて、いろいろなお話をされてたんですけど、そこで「違和を感じる」という表現を使ってたのを見ました。私はこれを聞いて、ちょっと聞きなれない表現だなと思い、それこそ違和感を感じてしまいました。 いったいどのような理由で田口さんがこのようなフレーズを使ったのか、勝手に判断することはできませんが、おそらく「違和感を感じる」という言い方が、意味が2重になって間違っているという判断からこのような言い方になったのではないかと思われます。 この「違和感を感じる」という表現、私は特に変だとは思っていませんでしたが、Webを検索してみますと、間違いと思ってる人と、間違いではないと思ってる人がいるようです。間違いと思ってる人のなかには「違和感を覚える」と言い換えるのが適当と考えている人もいるようです。そのような言い換えについては私も意味的には正しい表現だと思います。しかし「違和を感じる」という表現についてはどうかなと思ったしだいです。 それでは、果たして「違和感を感じる」というフレーズは意味的に2重になっているのでしょうか? 足がかりとして、以下の2つの文を見てみましょう
aに関しては、特に違和感はありません。普段から日常的によく使われる表現です。bについてはどうでしょう?おかしく感じませんか?意味的に同じ内容が重なっているように思いますよね。 それではこれらの表現のどこが違うのでしょうか? それは普段着をという言葉は「普段から着ているもの」の意味があるのに対し、重ね着という言葉は「重ねて着ること」という意味があるからです。 aとbを以上の定義で置き換えて見ましょう。
どうです?aは意味が通じますが、bでは意味が通じません。これ以降、aのような言葉を「普段着型」の単語、bのような言葉を「重ね着型」の単語と呼ぶことにします。前者を「もの型」、後者を「こと型」と呼んでもいいかもしれません。 さて、それでは「違和感」という単語は、普段着型なのでしょうか?重ね着型なのでしょうか? 普段着型であれば、「違和感」という単語は、「違和な感じ」という意味になります。また、重ね着型であれば「違和を感じること」という意味になります。 ヒントは「違和感を覚える」というフレーズにあります。 この「違和感を覚える」という表現については、特におかしいと考えている人はいないのではないでしょうか? それでは、このフレーズを普段着型の定義と重ね着型の定義で置き換えてみましょう。
どうです?aはOKですが、bではおかしいでしょう? このことから、違和感をいう言葉は普段着型の単語であり、「違和な感じ」という意味で使用されているのであって、「違和感を感じる」というフレーズは、「普段着を着る」と同じで、少なくとも意味的には何の問題もないということがわかります。 「違和感を感じる」が意味的に間違いだとして「違和を感じる」という言い回しを発明してしまったことは、誤った規範意識が日本語を捻じ曲げてしまった典型的な例ではないかと思います。 私がここに書いたことは特に難しいことではありません。日本語を普段から話す人であれば、誰でも少し考えれば分かることです。言語学者を呼び出さなくてもすむはずのことなのです。 また、情報理論的な側面から見ますと、言葉に冗長性があるのは、受け取る側がエラー判定を行い、文章を修正して理解するために必要なことです。それ以前に、同じ記号が続いたからといって、その文章に含まれる情報量が少なくなるというのは錯覚で、01100101という記号も11111111という記号も、もし両者が同じ確率で発生するのであれば情報量としては同じということになります。 もし「違和感を感じる」という言葉がおかしいと感じるというのであれば、それは意味的な問題でも、情報理論上の冗長性の問題でもなく、使う人の美的センスの問題ということになります。 そこで冒頭の柿本人麻呂の歌です。この歌は百人一首にも選ばれていて有名な歌なのですが、一見すればだらだらとムダが多いように思われます。「尾の」という言葉を2回も使っていますし、「ながながし」という言葉にもなんともいえない引き伸ばし感が漂います。もちろん、そのような繰り返しを意図的に避けようと思えば、この柿本人麻呂と呼ばれる歌人には可能なことではあったでしょう。しかしながら、この歌には音韻や意味の繰り返しによって、同じ状態が長く続き、いつまでたっても終わらないという焦燥感がよく表われており、それこそがこの歌の価値を高めているのです。 これは一つの例にしか過ぎませんが「同じ記号が続くから美的に劣る」などとは軽々しく言ってほしくないものです。 #
by torafuzuku
| 2008-03-18 14:03
| 規則が大好きな人たち
2007年 07月 05日
馬鹿なことはやめろ!すぐこの本を閉じるのだ!<フォーマ>しか書いてないんだぞ! カート・ヴォネガット著「猫のゆりかご」より ★「神は妄想である」 リチャード・ドーキンス著 ドーキンスの宗教批判の集大成。科学と宗教の棲み分けとか、共存なんてことは少しも考えていない。徹底的に宗教を攻撃している。 私はこの本の分類によると汎神論者らしいのですが、特に宗教を撲滅せよなどとは思っていません。しかし、このようなブログをやっている関係で、ドーキンスほどじゃないですけど、同じように狂信的な人と話してきた体験がありますので、この本のドーキンスにちょっとばかり共感をおぼえました。まあ、気持ちはわかるってことですね。しかし、ほとんどの日本人にとって、一神教がこれほど強く生活に入り込んで、日常の道徳的判断に深くかかわっているという状態は想像できないでしょう。実際に私も実感できません。カトリックとプロテスタントの違いなんてのもよくわからないです。 たとえば、日本である人がクリスチャンであることを告白しても、ちょっと特殊な趣味を持っているぐらいにしか思われないでしょう。また、「信心深い人」であることを告白した場合は、道徳的に優れた人という評価を得るよりも、ちょっと危ない人といった評価を下される可能性が高いでしょう。 そんな日本人も信仰とは無縁ではありません。一神教のような強烈な神がいるわけではないのですが、「おてんとさまが見てるから悪いことはできない」といいますし、「食べ物を粗末にするのはもったない」と考えるのは、食べ物にある種の魂が宿っていると考えているからでしょう。同じように、以下のような言説もいわば「小さな信仰」であり、そのような多くの非合理的な信念とともに生活しているのも事実です。
以上の例は、玉石混合です。あえてそうしてみました。 これらの小さな信仰をもっと的確に表現する言葉はあると思いますが、残念ながら私は勉強不足によりその言葉を知りません。私が知っている言葉で一番近いのは、冒頭の引用で紹介した「フォーマ」という言葉だと思います。フォーマとはカート・ヴォネガットの「猫のゆりかご」という小説の中の架空の宗教であるボコノン教というのがありまして、その教義にある概念で、いわば「罪のない嘘」のことです。ボコノン教の教義はフォーマの集合体です。冒頭の引用はそのことを高らかに宣言しています。 フォーマという言葉は魅力的なのですが、ここでは敢えて単に『小さな信仰』と呼ぶことにします。 私はこの本を読んでいる間、
といった観点を常に見失わないように読んでいました。 で、その観点から見て、この本のなかで一番面白いのは第5章の「宗教の起源」です。 ドーキンスは宗教はミームの複合体であるという仮説を立てています。もし宗教がミームの複合体であった場合、当然ながらミームも遺伝子同様に、淘汰にさらされます。その過程でより強いミームが生き残ります。ドーキンスもしつこく繰り返してますが、強いミームは人間にとって必ずしもいいミームとは限らず、強いミームと共生しているからといって、それが人間にとって幸福とはいえないのです。このことから、都合のいい信仰をデザインするには、他の信仰に負けないほどの強いミームであることが必要条件だということがわかります。いくらいい信仰を設計したとしても、それが他の悪い信仰に負けてしまっては何にもなりません。 面白いのは、ミームの複合体である宗教が変化する過程を、ドーキンスは生物の遺伝子が変わっていく進化の過程とはちょっと違うニュアンスで捕らえているように見えるところです。ミームの複合体は特に大きな淘汰圧にさらされることなくても、大きな変化が起こりうるということをこの本では言っています。大した淘汰圧もないのに、自発的になだれ的に変化する自己複製子の集まりがあるといってるわけです。あのドーキンスがです。しかし、これと同じことが生物でも起こったとはさすがに言ってません。ドーキンスは生物における自己複製子(遺伝子)の集合体を、ちょうど肉食動物の遺伝子の集まりと草食動物の遺伝子の集まりの違いをひとつの例として説明しています。しかし、「草食動物が肉食動物にある時期に意味もなく突然進化することがあるのではないか」なんてことは言ってません。もし言ってたら「ドーキンス、宗旨替え」と揶揄されるところだったでしょう。 ドーキンスは、このミームの複合体における大きな進化の類似として、英語における大母音推移をあげています。同じように言語が突然変化する可能性については、ちょうどこのブログでも「複雑な世界、単純な法則」の書評のなかで取り上げたことがあります。私がその記事を書いたときには、大母音推移のことは明記していませんでしたが、頭の中にはありました。大母音推移のことについて、あまりよく知らなかったので、そのときはあえて書かなかったのです。 この「なだれ的な進化」は、一見安定しているように見える信仰も、ちょっとしたきっかけで崩れてしまい、全く別の複合体に変わってしまう可能性があることを示唆しています。したがって時代によって都合のいい信仰を少しずつデザインしなおす作業が時には必要であるように思われるのです。たとえば人権といった概念の場合を考えて見ましょう。やはりこれもひとつの『小さな信仰』といえるでしょうが、時代によってその定義や適用範囲が変わってくるでしょう。 #
by torafuzuku
| 2007-07-05 21:10
| 役に立つ文献とリンク
2007年 01月 30日
読み書きと自転車の類比は、以下の点でかなり有効である。 両者とも、文化的な産物であり、後天的に取得されるものであるということ 身体は自然科学の対象であり、自転車は工学の対象である。これについて異議を唱える人はいないだろう。 しかし、「言語は自然科学の対象であり、読み書きは工学の対象だ」という事実にはついては、まだまだ理解されていない。言葉に関する多くの議論が、この事実を認識していないことにより混乱が生じている。 両者を取得するためには、ある一定のコストがかかるということ 自転車に乗るには練習が必要であるし、読み書きを取得するには、子供のころから長い時間の学習が必要となる。このコストの問題は当たり前のことだと思われているので、コストであるという意識が薄れているが、なければないで越したことがない種類のものだ。 両者とも、先天的な能力(歩行能力と言語能力)を拡張するものであり、それらと密接に結合しているということ 言語と読み書きは、その起源に限っていうと別物であり素性が違うものだ。しかしながら読み書き能力の取得が、本来持っている言語能力になんらかの影響を与える可能性は十分にありうるし、かなり濃密に相互作用を与えあっていることは疑いがない。 同じことは自転車にもいえる。自転車はかなり微妙に身体の反応を受け取る道具だ。さらに、自転車に乗ることによって、足の筋肉の発達に影響が発生することもあるだろう。この点でいうと、自動車や電車は身体の拡張とはいえない。 以上を踏まえて、私が「鉄下駄理論」と呼んでいる議論について考えてみよう。鉄下駄理論とは簡単に言うと「読み書き方法の難易度を上げれば、読み書きの取得と使用の過程で脳が鍛えられていい」という考えである。よく見かける議論であるが、自転車の類比を使って見てみると「自転車は乗りにくくてペダルが重いほうが足が鍛えられていい」といってるのと同じだということがわかる。 ちなみに、コンピュータと自転車について、今から20年以上前に、同じような類比を行っていた人がいた。米国のアップル社のスティーブ・ジョブス氏である。彼は直感的にアップル社のコンピュータを知的自転車と呼んでいた。当時のアップル社のコンピュータが自転車と呼べるほど身体を拡張する道具であったかどうかは疑問であり、むしろ電車に近い道具だたったのかもしれないが、のちにMacintoshによって、曲がりなりにも知的自転車と呼べるコンピュータが実現することになる。彼の直感は間違っていなかった。 私はコンピュータの出現によって、従来の読み書き方法が、歴史的なひとつの曲がり角を迎えているのではないかと考えている。コンピュータによって読み書きを取得するコストが大幅に抑えられ、さらに全ての人間が同じ読み書き方法を共有する必要がなくなる時代が来るのではないか、と考えている。 ずいぶんSF的な話に聞こえるかもしれないが、漢字変換ソフトを使って文字を入力している人は、すでにその世界に足を突っ込んでいる。Webページにふりがなを振って表示するソフトなんていうのも今の技術をもってすれば簡単にできてしまうだろう。 万人が同じ自転車を乗る必要はない。読み書き方法の共有を捨て去ることで、無駄なコストが削減され、読字障害に悩む多くの人が救われるのではないかと思っている。 #
by torafuzuku
| 2007-01-30 20:05
| 読み書きと人
2006年 11月 30日
『ヒューマンリーグ。馬鹿気た名前だ。なんだってこんな無意味な名前をつけるのだろう?昔の人間はバンドにもっとまともな節度のある名前をつけたものだ。インペリアルズ、シュプリームズ、フラミンゴズ、ファルコンズ、インプレッションズ、ドアーズ、フォア・シーズンズ、ビーチボーイズ。』 村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」より 広島に根拠地を置くプロ野球チーム「広島カープ」は、発足当初は「広島カープス」といったそうだ。発足した直後に、広島大学の先生などが「英語のCarpは単数と複数が同形なので、カープスはおかしい。カープにすべきだ」と主張して、今の「広島カープ」という名前になったそうだ。その広島大学の先生たちは、いわば「広島カープス撲滅委員会」というわけだ。この話は随分古い話だし、公式ページにも載ってなかったので、詳細は異なるかもしれないが、大筋ではこのような話で間違いないだろう。「広島カープス撲滅委員会」の「間違った英語を広めると教育上よくない」とか「米国人にこんなチーム名が知られたらはずかちーですよー」とかいう声が聞こえてきそうだ。とにもかくにも、最終的には「広島カープス撲滅委員会」の運動のおかげで、広島のプロ野球のチーム名が、正しい名前「広島カープ」に修正されました。めでたし、めでたし。 ところがこれで話は終わらない。 というのも、チーム名は普通名詞とは違うから、普通名詞の規則をそのまま当てはめる必要はないという説もあるからだ。例として、カナダにはトロント・メイプルリーフス(Toronto Maple Leafs)という名前のホッケーチームがある。これ、普通名詞の複数形だとメイプルリーヴス(Maple Leaves)になるはずなんだけど、なぜかメイプルリーフスになっている。なぜかというと、このチーム名はメイプルリーフのマークの付いたユニフォームを着ていることにより、一人一人が「メイプルリーフ」とあだ名される男たちの集団という意味で命名されたのであり、ホッケーチームはトロントの公園にあるカエデの葉っぱとは違うので、「メイプルリーフ」スというチーム名にした、というわけである。 このように「何々とあだなされる人たちの集団」という形の命名規約を「古典的チーム命名ルール」と呼ぶことにする(註1)。 ところで、米国のバスケットボールのチームには、ミネソタ・ティンバーウルブズというチームがある。先ほどの説明だと、チーム名は狼を表す一般名詞ではないのだから、ティンバーウルフスでなければならないという話になる。しかし、実際にはティンバーウルヴズだ。なんでこの二つのチーム名で命名の規則が違うのかよくわからない。ただ、チームの構成員を葉っぱそのものに見立てるのは無理があるけど、狼に見立てるのはそれほど違和感はない、ということかもしれない。じゃあ、どのへんにその線引きをするのかというと、これはもう名づけた人の考え方一つとしかいいようがない。 それでは広島カープのケースはどう考えればいいんだろう。 ヒントになるのが米国のMLBの例で、フロリダにはマーリンズというチームがある。マーリンというのはカジキの一種で、カジキというのは言うまでもなく魚類の一種であるから、「広島カープス撲滅委員会」の言い分を当てはめると、フロリダ・マーリンズはフロリダ・マーリンでなければならない。これは、先ほどのチーム名と普通名詞を区別するという話に加えて、魚だからといって単純に単複数同形といっていいのかどうか、という話とからんでくる。 実際にcarpという単語をいくつかの辞書で引いてみると、複数形のところにcarpsもありえるということになっている。carpとcarpsをどのように使い分けているのかというのは辞書を引いただけではよくわからなかった。又聞きした話だと、観賞用のコイのように一匹一匹が個性があって区別できる場合はcarpsというのだそうだ。残念だけどこの説の裏付けはとれなかった。しかし、もしその説が正しいとすると、野球のチーム名としてはcarpsのほうが、その使われ方を考えれば適切に思われる。つまり、山本浩二と衣笠の区別ができないとか、正田と高橋慶彦の区別ができないとか、外木場と北別府の区別ができないというのでもないかぎり、「広島カープ」というチーム名にする必要はない。いくら個別の選手を鯉に見立てたとしても、選手を鯉と全く同一視するのは、やはり無理があるんじゃないだろうか(註2)。というわけで「広島カープス撲滅委員会」の主張と異なり、古典的な命名ルールに従えば「広島カープス」のほうがより適切なチーム名のように思われる。 ところが、これで話は終わらない。 これまでは、「古典的チーム命名ルール」に限定して話してきたが、それを逸脱する場合も今では多いからだ。 実際にNBAにはsが付かないチーム名が他にもたくさんある。たとえば、マイアミ・ヒートとか、オーランド・マジックとかだ。これらは、「古典的チーム命名ルール」を逸脱した「前衛的チーム名」といえるだろう。この場合、すでにチームの構成員をチーム名の単数形で呼ぶことは不可能になってくる。チーム全体が「ヒート」であり、チームが「マジック」を演出するという意味なのだろう(註3)。 そう考えると「広島カープ」というチーム名は、「古典的チーム名」としては、そのルールを逸脱している名前であるが、「前衛的チーム名」と考えると、チーム名がつけられた当時としては非常に画期的なチーム名であるといえる。チームそのものが歌川国芳の武者絵に出てくるような巨大な一匹の大きな鯉をあらわしていると言われれば、なるほどそうかもしれないと思えてくる。 というわけで、私は「広島カープ」という名前はそのまま変える必要はないと考えています。もう「広島カープ」で定着してますし、言葉は話し手の意図が重要で、規則はあとから来るものだと思ってますから。 註1 古典的チーム命名ルールでは、チームの構成員は、チーム名の単数形で呼ぶことが可能になる。たとえばタイガースの若手選手をyoung tigerと呼ぶことが可能になる。ここで疑問なのはボストン・レッドソックスの例だ。果たして、レッドソックス(ホワイトソックスも同じ)の個別の選手はどのように呼ばれるべきなのか。松坂大輔は redsox from Japan と呼ばれるべきなのか?それともredsock from Japanと呼ばれるべきなのか? 註2 どちらかというと、広島カープの選手は、猿やらくだなどの他の動物に見立てた方がいいという意見を言ったドラゴンズファンの友人がいたが、私はそうは思わない。 註3 リーグ別に調べたところ、MLBのような古いリーグでは、すべてが「古典的チーム命名ルール」に従っており、NFL、NBAの順番で、「前衛的チーム名」が増えてくる。これは、リーグ自体が保守的かリベラルかの指標を示しているようで面白い。 #
by torafuzuku
| 2006-11-30 20:58
| ××撲滅委員会
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